| 4月の法話 守り伝えること/日慧 |
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ちょっと前にはずした眼鏡が見当たらない。眼鏡がひとりで歩くはずはない。自分が置き忘れたに違いないのだが、どこを探しても出てこない。 こういうことがよく起こる。眼鏡や腕時計などはとりあえず替わりのもので済ませることができるが、これが大切な書類などだと出てくるまで探し回ることになる。その間にストレスもたまるし、捜し物に費やする時間も、たまれば相当な量になるだろう。コンピュータなどではない、生身の人間にとって、仕方ないこととはいえ、物忘れということは困ったものだ。 物忘れは、個々の人間だけではなく、集団社会においてもままある。時代の移り変わりとともに、すっかり忘れ去られてしまったことはたくさんある。お正月に若水を取るなどということも、ほとんどなくなってきた。結婚に当たって、媒酌をたてるということも減っている。ひな祭りも端午の節句も、その意味を置き忘れて、ひな人形、武者人形を飾るだけの行事となりつつある。最近では、食事前に手を合わせて「いただきます」さえさせない小学校があるという。 合理性という名の下に、様々な慣習、しきたりといったものが次第に忘れ去られ、大切な心まで失われていくように思える。 一度見失ってしまえば、探し出すのは容易なことではない。このようにして忘れられ消え去っていったよき伝統、過去何世代にもわたって伝えられてきた様々な事象がどれほどあるだろうか。思いやり、いたわり慰め合う。そんなことも次第になくなってくると思うと、やりきれない思いがする。権利と義務だけで、がちがちに固められた世の中なんて、想像するだけでも背筋が寒くなる。 今、私たちが守り伝えていかなくてはならないものがたくさんある。二千五百年の昔から伝えられてきた仏の教えもまたそうだ。この世が、私たち一人一人が活き活きと暮らし最上の人生を送るための智慧を、置き忘れてはならない。 |
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| 最終更新日 ( 2007/05/06 日曜日 21:23:42 JST ) |