山のたより

能勢家文書

「信友」の「山のお便り」欄の記事を掲載しております。

一歳になる次女がお姉ちゃんの人形を欲しがってきかない。お姉ちゃんも譲れない。二個買えば済む話かもしれないが、万事がこの調子ではきりがない。

これが動物なら欲しいものを奪い合って争いがおこるし、分別のある人間であっても換えのきかない貴重な資源などはいつも争いの元になる。

だが、そこで戦うだけでは動物と同じ。皆が幸せになるにはどうすればいいか、考えたり相談できるのが人類の叡

先日、何年かぶりに歯医者に行き、歯石を取ってもらった。

普段きちんと磨いているつもりでも予想以上に歯石がたまっていて驚いた。歯磨きは形だけゴシゴシやってもだめでポイントをきちんと押さえないと効果が薄いらしい。

ふと思い当たったのが、これは私たちの信仰でも同じだと言うこと。基本が分からず形だけお経をお唱えしても御利益は薄い。

では基本が何かというと、信じることだ。反対に、

 いつも着ている服を普段着といいますが、「普段」という漢字は近年の当て字で江戸時代までは「不断」と書いたそうです。日常は絶え間なく続くことから「不断」とは言い得て妙です。

 逆に考えると「不断の努力」という言葉は何か特別な事を必死でやっているイメージが湧きますが、現在の普段に置き換えると、例え特別な努力であっても日常の習慣になるくらいまで努力するという芯のある力強い言葉に聞こえます。

 最近、テレビや雑誌などでお葬式の特集をよく見かけます。その多くは、お葬式はお金がかかりすぎるので簡素にしようという話。節約のため誰にも亡くなったことを告げずにこっそり送り出す方も増えているそうです。

 でも、お葬式は亡くなった方のためだけにあるのではなく、残された方にとっても別れをかみしめその縁を確認する場です。

 必要以上にお金をかけるのは反対ですが、お金の観点から

 「恐縮です」の台詞で有名な芸能レポーターの梨本勝さんが先月亡くなられました。梨本さんは亡くなる二日前まで記事を書かれていたそうです。亡くなる直前まで仕事ができるというのは素敵なことだと思います。

 働くということは、生きるためであると同時に誰かの為に役に立つということです。誰かの役に立つ事を仏教では菩薩行といい、日蓮聖人も仕事を法華経の修行と思いなさい、と言われました。