山のたより

能勢家文書

「信友」の「山のお便り」欄の記事を掲載しております。

日蓮宗大荒行。その修行僧が身に着けるのは麻の袈裟衣だ。

実はこの姿は私たち出家僧の死に装束である。私たちが臨終を迎え棺の中に入る時は、この姿になるのである。修行僧のこの装束には二つの意味がある。

一は、すでに仏の弟子として出家した時点で身命を仏に委ねたという、その原点を忘れずに修行するという心を示すため。

二は、たとえ力及ばず修行中端に倒れても、最後まで志を貫くと

昨年十一月一日より開設された寒壱百日の大荒行堂も、折り返し地点を越えた。百日というと長いと感じるか短いと思うか。四度目の修行中の副住職はどう感じていることか。

百日間といっても、一日一日、一瞬一瞬の積み重ねである。今という時間は再び戻ってくることはない。たとえば同じ日の出でも、「初日の出」となると特別感がある。しかし二日目の日の出もまたその日限りのものだ。

一年を通

先月号のこの欄に掲載されたとおり、副住職は十一月一日より千葉中山の大本山法華経寺二界説されている日蓮宗加行所で、壱百日間の修行中である。

四度目の修行の眼目は「水神相承」と呼ばれる相伝を伝授されることにある。

万物を組成するとされる五行=木火土金水=の一つである水は、中でも最も重要な要素で、これを司るのが水神様だ。生物の根源であり、自然界の循環を司るのが水神様。

 この冬、四度目の加行所に入行する。

 加行所は一般には大荒行堂として知られるが、日蓮聖人から帝都弘通を委嘱された日像上人が寒壱百日の間、由比ヶ浜で行を積んだのが始まりという。

 現在の荒行も、日に七度の水行で身を清め朝夕二度の白粥のみで命を繋ぎながら、ただひたすらにお経を読むという厳しい修行だ。

 四度目といえど緊張感は初めの時と変わらない。どころか、むしろ増し

 昨年から災害に悩まされている。直撃した地域に比べれば被害は軽いが、毎日の法務や生活で手一杯のところに、土砂で埋まった排水溝の掃除や倒木処理など、体力的にキツいだけでなく精神的にもうんざりしてしまう。

 とはいえ溝掃除は普段目が届かないところを掃除する良いきっかけになったし、倒木処理も趣味の木工の材料集めと思えばなんだか楽しくなってくる。

 起こったことは仕方がない