山のたより

能勢家文書

「信友」の「山のお便り」欄の記事を掲載しております。

 ある新聞のコラムで乗馬用の馬の事が書いてあった。のんびり歩く乗馬用の馬は競走馬からの転用も多く、落ちこぼれの馬と思われるかもしれない。

 だが、競走馬は速く走ることを目的に作られたため、ゆっくり走ることが苦手で、ゆっくり走れることはそれ自体が才能だという。

 私たちは何かうまくいかないと自分には才能がないと落ち込んでしまうが、才能はいろんなところにある。

 大切にしまったはずの万年筆。どこにしまったのか全然思い出せない。散々引き出しやタンスをひっくり返すと、大切にしすぎて使われることのなかった万年筆がほこりをかぶって出てきた。

 万年筆は使えば使うほど手に馴染み、より真価を発揮する。逆に使わないと錆びたりインクが詰まったりしてだめになってしまう。よい道具ほど使わないともったいない。

 そこでふと思ったのがどこの家にもある

 「井の中の蛙大海を知らず」という言葉がある。原典は『荘子』の寓話だ。狭い世界にこもり広い世界がある事を知らず、転じて見識が狭い事を言う。

 しかし日本ではこの続きが作られ「されど空の深さを知る」と続く。こうなると逆に深く物事を追求する姿勢を賞賛する意となる。

 広く深く全てを知るのが理想だが仏様でもないと難しい。ではどうすればいいだろう?

 そんな私達の

 お彼岸を過ぎると桜のニュースを目にする機会が増えてきます。

 桜が咲き始めると、冬の間はほとんど変化のなかった山の景色がうそのように一変します。毎日めまぐるしく変わっていく様は見ていても壮観です。また数日ではらりと散る様は何とも潔く、それが心に諸行無常の思いを起こさせます。

 諸行無常という言葉はどこかはかなく響きますが、物事は常に変化しているというシンプルな事実を示す言葉でもあり

 梅の花が咲き始めました。梅と言えばウグイスですが、その鳴き声の「ホーホケキョ」とは「法華経」の事。

 このように動物の鳴き声などを人間の言葉に当てはめることを聞き倣(な)しと言います。他にもコノハズクは仏教の三宝である「仏法僧」と鳴きますし、ホトトギスは「本尊掛けたか」と鳴くそうです。

 近頃、宗教というと構えてしまう人が多いですが、昔は日本人の生活に溶け込んでいたのですね。せっか